『接続された身体のメランコリー 〈フェイク〉と〈喪失〉の21世紀英米文化 』を読んだ

『接続された身体のメランコリー 〈フェイク〉と〈喪失〉の21世紀英米文化 』(髙村峰生著 青土社)まずは一回目読了。ネットワーク社会に常時「接続」されることで “本来とは違う、なんかヘンなことになっている自分”に感じる気持ち悪さ、抑うつ的な感覚というのは以前から感じていて、それがコロナ禍(とりわけ第2回ステイホーム期)でより強まっている気がしていた。そんな中でこの本を読み、メランコリックな気分の底に流れるものを考えるきっかけが得られたように思う。それは、自分が何から疎外されているのか、あるいは「自分が何を喪失したのか」を意識することでもあるけども、そのことについて自分なりにうすボンヤリと考えていた仮説のようなものをこの本に言語化してもらったような気がする。「あなただけじゃないんだよ」と言われているようで、(けっして易しい文章ではないけども)夢中になって一気に読んでしまった。久しぶりにワクワクするような批評に出会った気がする。

序論と最後の第10章はそうした現代的な状況に関する論考。その間に、クリストファー・ノーラン、ジム・ジャームッシュクエンティン・タランティーノ、スパイク・リー、ルー・リード、デヴィッド・ボウイ、カズオ・イシグロ、トニ・モリスンなどの作品に関する評論が並ぶ。これらの作家たちの作品群は同時代に生きる私たちに様々なものを問いかけ、時代の背景を色濃く映し出す。僕らが映画や音楽、文学に求めるものを改めて気づかせてくれた感じもあって、そういう点でも個人的にたいへん刺激を受けているところ。この本、音楽や映画を愛する皆さんにも、ぜひ手に取って読んでほしいなと思う。