追悼
旧友Mが急逝した。
仙台に国分町という繁華街がある。6月中旬某日の夕方、仕事先との打ち合わせに向かう途中、その国分町で倒れ、救急搬送され、そのまま亡くなったのだそうだ。心臓発作を起こしたとのことだが、詳しい死因はわからない。国分町の隣り街にある彼の自宅マンション兼仕事場には一度だけ泊まりに行ったことがあり、その最期に歩いたルートは想像できた。倒れたとき、彼は身分証明書の類を持っていなかったらしい。Mの携帯電話の通話履歴から、(おそらく病院か警察が)最後にかけた相手先を割り出し、ようやくMの身元がわかったのだという。
共通の友人で、Mの仙台での仕事仲間でもあるFさんから報せをもらったのは、そんなあれこれが終わった直後のことだった。驚いた。頭が真っ白になるとは言うけれど、ほんとうに空っぽになるんだなと思った。2時間くらい、「Mが死んだ」という事実だけが頭の中をリフレインするばかりで、それ以外には何一つ実感の湧かない状態が続いた。その後、やはり仙台在住のFacebookの知人からも連絡をもらった。やはり、それ以上詳しいことはわからないようだった。その後、仙台市内に住むお姉様が喪主となり(Mは独身だった)、葬儀は家族だけで行われたという情報をもらった。これが自分の知るMの死のすべてだ。
訃報から2週間以上が過ぎた。亡くなったという事実は少しずつ受け入れられるようになった。しかし、仙台から遠く離れた横浜にいるせいか、あるいはカタチだけでもちゃんとお別れをしていないせいか、彼の死をリアルに捉えることができないフワフワとした感覚がいまだに続いている。Fさんから連絡をもらったのは新型コロナウィルス感染予防のための在宅勤務期間が終わる直前だった。その後再び東京のオフィスに通勤するようになり、あれこれと新しい業務をこなす日々を送るなかで、徐々に彼のことを忘れる時間も増えていった。しかし、例えばFacebookで友人の投稿を見ると、あるいは野球のニュースでMの好きだったロッテの試合結果を知るときなど、ふとした瞬間にMのことを思い出しては、「ああ、アイツはもういないんだな」と思ってしまう。そしてもっと会っておくんだった、もっと話す機会をつくるべきだったと思うのだ。しかし、もう遅い。
彼は仙台の大学で同級生だった。出会ったのは1982年だから、かれこれ40年近く前のことだ。最初にどうやって知り合ったのかは思い出せないが、同じ文学部で、クラスも同じ、専攻は違うが学科も同じだったので、接点はいろいろとあったのだろう。アルバイト先も、同じくデパートの配送センターで一緒だった。思い出すことといえば、くだらないことばかりだ。カーリーヘアーに髭の名物マスターがいる国分町のパブに通い、カラオケを二人で連日歌っていた時期があった。ある夜に二人とも酔いすぎて、マスターではなく他のグループの客からつまみ出されたことがあった。真夜中に寝ているところを、同級生Oの家で飲んでるから来いとMから電話で起こされた日のことも思い出す。すでに眠りこけている同級生の背中に、後の某テレビ局のロゴマークに似た例の放送禁止の図案をMと二人して悪戯書きして帰って来た。Mが仙台駅の近くの部屋に引っ越すというので軽トラックを借りて終日手伝ったこともあった。学生時代の記憶は、枚挙にいとまがない。卒業後Mは仙台の広告代理店に勤め、その後何回か転職した後にコピーライターとして独立。広告やプロモーションの仕事をずっと続けた。自分は東京で就職し、最初は別の業界に入ったが30代でキャリアチェンジし、広告デザイン会社に入り同じくコピーライターになって今に至る。何か不思議な縁がある。仙台出張の際には、例の髭のマスターの店のバイトだった人が国分町に開いたバーにも何度かMと飲みに行った。自分が結婚した時には二次会に出席するためにわざわざ仙台から東京まで来てくれた。しかし、その後は、ほとんど会うことはなくなった。それでも連絡先だけは交換していたし、メールやSNSで互いの近況は把握するという程度のゆるい友人関係が続いていた。
最後に会ったのは、10年以上前のことだったと思う。Mが東京、それも私の職場のある渋谷に、新しい事業のための会社を設立したというので、一度久しぶりに会って昼飯でも食おうということになった。あんなことやこんなことも、懐かしい話ができるのが楽しみで、昼休みの時間も長めにとり、喜び勇んで待ち合わせのレストランに行った。Mは一人ではなかった。一緒に仕事をしているという人を連れてきていた。仕事関係で同じ渋谷にいるからと紹介するつもりだったのか、あるいは久しぶりなので照れ隠しに第三者に同席してもらったのかはわからない。初対面の人がいるという予想外の状況に、自分はやや戸惑った表情を浮かべていたことと思う。が、その後は気を取り直して、新しい事業の話(案内資料も渡された)を聞き、同席の人ともいろいろ話をした。でも、どんな話をしたかも憶えていない。「おれは、お前とサシであれこれ話がしたかったのに…」と思いながら、“ランチョンミーティング”は終わった。あの時、ちょっとだけ自分はMの対応に腹を立てていた。
結局はMの新規事業会社は早々に店じまいとなり、渋谷での会合はこのとき限りで二度はなかった。そして、このときのランチがMと会った最後になった。
訃報を真っ先に知らせてくれたFさんとの縁を取り持ってくれたのもMだった。たしかあれは東日本大震災のあった年の秋、被災した仙台と松島地域の復興の様子を確認しに行こうと思いMに連絡を入れた。彼は都合が合わなかったが、仙台の地元のおいしい店を家人と私のためにメールで紹介してくれた。そして、「画家でイラストレーターなんだけど、君とまったく同じ生年月日の人がちょうどその時期に個展をやっているから会ってみたら?」と会場のデパートを教えてくれた。Fさんの個展に行った日は、まさに我々の誕生日だった。それ以来Fさんとの縁は続いている。
私もMもFacebookに誕生日は公開していないのだけれど、互いの誕生日にはダイレクトメッセージで「今年も、ひっそりと誕生日おめでとうございます」と短い祝いの言葉を送り合うのが恒例だった。私の誕生日はFさんと同じなので、そのついでに送ってくれていたのかもしれないが、彼の誕生日は学生時代に手帳にメモしたそのままで私は憶えていた。その日になると、忘れずに年一回のダイレクトメールを送る。友達としてはそれで十分じゃないかと思っていた。
それが、今日7月4日。本来ならそのMの58歳の誕生日だ。今年はメッセージを送ることができないので、推敲もせず、こんな追悼文にもならぬ駄文を贈ることにした。
変な話だけど、年齢を重ねると死はわりと普通のことに思えてくる。自分と関係のあった人の母数は多いから、その分だけ知人や友人、親類の訃報に接することは増える。不感症にならないとやっていけないほど、死にある意味鈍感になる。そして、その感じ方はその人との交流が現在形かどうかということにもよる。Mだってそうだ。大学時代なら大泣きする場面でも今は涙も出ない。ただただ心にぽっかりと穴があいたような寂しさがあるだけだ。それでも、あの楽しかった、ただただ馬鹿馬鹿しいほど楽しいだけの若い日々の記憶は、これからも私をきっと支えてくれる。ありがとう。そして、どうか安らかに。
2020年7月4日 Mの誕生日に。