豪雨の夜、90年代以降のミルトンを考える 〜ミルトン・ナシメントを極める Vol.2 完結編@国立No Trunks〜

8月7日(日)は「ミルトン・ナシメントを極める Vol. 2 完結編@国立No Trunks」。会場である国立駅前のジャズハウスNO TRUNKSへは横浜からクルマで向かったのだが、国立の街に入ったとたんにいわゆるゲリラ雷雨に見舞われビックリ。駐車場から歩いている間に足もとはしっかりずぶ濡れ。いやはや、傘も役に立たないほどの雨でござる。ブラジルの夏もさぞや強烈な雨が降るのだろう、と遠い国に思いをはせながら会場へ。5階にあるお店の窓の外では稲光がピカピカと光り続けております。
ミルトンのデビューから近年の作品までを一気に概括した前々回(2011年4月21日:記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/akazaru09/20110426/p1))、日本も含む他のアーティストによるミルトンのカバー、サンプリング曲を通してその魅力を探った前回の「裏ミルトン」(同6月11日:記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/akazaru09/20110616/p1)に続くシリーズ最終回、主に90年代以降のミルトンを聴くという内容です。解説はおなじみケペル木村さん(MPB -store)、柳樂光隆さん(珍屋/JazzJAPAN)、江利川侑介さん(ディスクユニオン)。
ミルトン・ナシメント・ミュージック・フォー・サンデイ・ラヴァーズ
ここでミルトン・ナシメントのキャリアを、当日聞いた話も交えてざっくりと振り返ってみましょうか。
ミルトンは、67年にデビューし、69年A&MCTI)からリリースしたアルバム“Courage”で米国での認知が高まり、その後、アルバム“Milton”“Clube Da Esquina”などの数々の名作を生み出す。74年にはウェイン・ショーターの“Native Dancer”に参加するなど、70年代にはシンガーとしてまたコンポーザーとして最盛期を迎える。そして80年代に入ってからも充実した内容のアルバムを次々に発表するが、CBS Internationalに移籍して発表したアルバム“Yauarete”(1987)あたりから、その活動がワールドワイドに広がるのと反比例するように、アルバム全体の印象は(外れ曲ナシのそれまでのものと比べると)徐々に輝きを失いはじめる。
さらに個人的な事情が追い打ちをかけた。本人の持病が悪化し、また、マネージャーだった人物が亡くなり、ミルトンの資産管理がまるでなされていない状態だったことが判明した。さらには、親しかったアナ・マリア・ショーター(ウェインの妻)やリバー・フェニックスアイルトン・セナの死など不幸が続いたことなどもあり、精神的・肉体的に大きなダメージを受けたミルトンは90年代の中盤には一時引退を覚悟したらしい。しかし、この最悪の状態にあったミルトンを救ったのが地元ミナスの若手ミュージシャンたち。彼らの支えと病気(糖尿病)の治療の甲斐もあって1997年“Nascimento”で奇跡の復活。このアルバムはグラミー賞ワールドミュージック部門)を獲得するヒットになった。その後もオリジナルアルバムや共作のアルバムを数作発表し、ライブ活動も精力的に行い、現在に至る。
CroonerNascimento
と、こんな感じですが、まさに激動の時代ですね。じつは90年代以降のミルトンは、私はこの“Nascimento”とカバー中心の“”Crooner”しか持っていないのですが、どちらも一聴した限りでは、60〜80年代前半の作品群に比べて物足りなさを感じるのは否めない。声の力もないしね。しかし、こうした涙の歴史を聴いた今では、“Nascimento”の冒頭数曲はまったく新しい感動をもって聴けるから不思議です。とくに1曲目の“神への賛歌”はミナス奥地に伝わるタンポーレス・デ・ミナスという大地のリズムとコーラスだけのシンプルな曲。病気を患っていたミルトンにミナスの若手ミュージシャンたちがこのリズムを聴かせ力をあたえたのだそうだ。うー、泣ける話じゃないか! “Crooner”もミルトンが好きな歌を伸びやかに歌っているアルバムでけっこう楽しめます。マイケル・ジャクソンのBeat Itもカバーしているし(これすごいです)。あ、そういえば最近の“Pieta”のライブDVDも持ってました。
Pieta
話は戻る。90年代以降の作品がパワーダウン? そりゃそうですよ。ミルトンほどの天才でも、歳をとり病気をすれば声も出にくくなるだろうし、全キャリアにわたってクリエイティビティと体力がフルパワーの人なんているわけがない。例えば、ポール・マッカートニーがいくら凄いからといって60年代のほとばしるような作曲能力を2011年に期待しても仕方ないのと同じ。そういえばこの二人、同じ1942年生まれでした。大地の匂いとさまざまな音楽要素が融合したミルトンのアコースティック時代が80年代中盤でひと区切りとすれば、ポール卿のひとつのピークも80年前後の、ほら、成田で捕まった前後までだったような気がする(ごめんなさい、偉大な人をワタクシごときがw)。ミルトンの場合は、歌詞の検閲などアーティストに厳しい制約を強いたブラジルの軍事政権時代と音楽的な全盛期がほぼ一致するのも興味深いです。こうしたミルトンの個人史とブラジル史、西洋ポピュラー音楽史との関連を洗ってみるのも面白そうですね。Mccartney
もちろん、ミルトン・ナシメントという不世出のアーティストには、2010年代もさらにその先の時代にも、素晴らしい作品を生み出し、ライブ活動を展開してくれることを期待しています(とにかくもう一回来日してほしい…それが私の願い。笑)。
ミナス
…E A GENTE SONHANDO
さて、このほかにも秘蔵映像や音源の紹介など盛りだくさんで、会は4時間以上にわたり、雨に濡れた足下もすっかり乾いていましたが(笑)、一番印象に残ったのが、1988年にミルトンが来日した時のケペルさんの思い出話でした。日比谷野外音楽堂で行われたライブはあいにくの雨。ラストの曲“カンソエス・モメントス”が終わり、メンバーが引き揚げたあともケペルさんをはじめ会場にいた日本の観客は合唱をやめず、雨のなか歌い続けたそうです。その姿に感動したバンドメンバーとミルトンは、雨吹き荒ぶステージに戻り、コンサートの第二部を始めたのだとか。この体験はミルトンの心に非常に大きなインパクトをあたえたらしく、後に「日本人は止まらなかった!」と、遠い国で受けたライブの感動をいまだに語っているようです。ああ、それにしても、このライブは1988年の何月何日だったのだろう。以前のジョビンの日比谷野音ライブの記事(→http://d.hatena.ne.jp/akazaru09/20110724/p1)にも書きましたが、1988年といえば当時、野音のまさに道路はさんで向かい側にあるビルの中で私は日夜働いていたのですよ。ああ、ジョビンに引き続きなんという失態。なんという無念さ。もっと早くにミルトン・ナシメントの音楽と出会っていたら、間違いなく自分もその日、雨の会場でアンコールを叫び続けていたことでしょう。そしてシンガーとしてピークにあった1988年当時のミルトンの歌声をナマで体験できたのに……ああ、逃した魚は大きい。

この番組懐かしい!「ナイト・ミュージック」だったかな? デヴィッド・サンボーンがホスト役でハイラム・ブロックやマーカス・ミラーなどのバックでゲストが演奏する。たしか1988年頃だからちょうど日比谷野音でのライブの時代ですね。雨の中皆さんが合唱したのはまさにこの曲。