「″裏″ミルトン・ナシメントを極める」(6/11)に行った
前回4月21日に行われた「ミルトン・ナシメントを極めるfeatケペル木村@国立」(記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/akazaru09/20110426/p1)のまさに裏バージョン「″裏″ミルトン・ナシメントを極める」に行ってきた。
6月11日(土)、場所は″表″と同じく国立NO TRUNKS。巨大なアルテックA7スピーカーが鎮座する店内は幅広い年齢層の音楽ファンたちで満席。今回は珍屋レコードの柳樂光隆さん、ディスクユニオンJazzTokyoの江利川侑介さんが進行を担当し、ケペル木村さんは終盤に参加というスタイル。ミルトンの楽曲がHIPHOP、HOUSE、JAZZ、さらには日本のPOPSや近年のポストロック、音響派に至るさまざまなジャンルでどのように取り上げられ、あるいはカバーされてきたかを、数多くの音源を一気に通して試聴しつつミルトンの魅力を浮き彫りにしようという企画だ。
会は19時から23時近くまで続いた。それでも足りないと感じるほどの充実した内容だった。まずはHIPHOPの世界でミルトンが取り上げられるきっかけとなった、EW&F絡みのクレジット上の「誤解」のエピソードが披露され(これ、興味深かったです)、続いて “Tudo Que Voce Podia Ser”の印象的なギターカッティングをサンプリングネタとして使った楽曲がいくつか紹介される。その後、HOUSE、JAZZ、JAPAN、CONTEMPORARYの順に、ミルトンを取り上げた楽曲が次々と紹介されていった。そのなかには、私の個人的イチ推し美形超絶技巧ベーシスト&コンポーザーのエスペランサ・スポルディング(ライブレポートはこちら→http://d.hatena.ne.jp/akazaru09/20110221/p1)によるカバー“Ponta De Areia”もあったが、この大音響で聴くとじつに新鮮。その他、当日の試聴のセットリストにはこれまで聴いたことがなかったアーティストも多く含まれ、音楽的視野を広げる意味でもありがたかった。柳樂さん&江利川さんには、膨大な楽曲のピックアップに感謝。クラブカルチャーに疎い私には大変勉強になりました。
さて、ミルトンやミナス系のアーティストを評するときに、キーワードとして「浮遊感」という表現がよく使われるが、こうしてミルトンのカバーのラインアップから連なる人脈をたどっていくと、ブライアン・ブレイド、デヴィッド・ラノワ、ジョニ・ミッチェルなど、浮遊感あふれるサウンドを特徴とする顔ぶれが次々と登場してくるのも非常に興味深い。また、終盤にケペル木村さんが言われた「ブラジルのミュージシャンは音を詰め込みすぎないように空間をわざとつくる演奏をする。音を抜くことで空間に風が通る、それが心地よさを生む」という言葉も非常に印象的で、独特の浮遊感を生み出す理由の一つがこのあたりにあるのかもしれないと思った。
このように多くの刺激に満ちた会であったが、私がもっとも注目したのは、日本人アーティストによるミルトン・カバーのくだり。あの名曲“Travessia”の日本語カバーが紹介された。moon riders、のっこ(ex.レベッカ)、大工哲弘、かもめ児童合唱団(!)、そしてEPOの5組だが、基本的にはEPO以外はmoon riders版の詞と曲をベースにしている。それぞれに、日本語の歌としてはいい仕上がりだと思う。大工哲弘氏のボーカルの味わいなどミルトンを彷彿とさせるような大地の匂いを感じるほどだ。しかし、何だろう、一連の日本語カバーに感じるこの違和感。なんというか、物足りなく、こそばゆい感じは。
この違和感の原因を探っていくうちに気づいたこと。それは、この基本となるmoon riders版の日本語詞は譜割りが単調でザックリしすぎているのではないかということ。日本語とポルトガル語は発音が似ているとよく言われる。ただしそれは母音の話であって子音の豊富さはポルトガル語に軍配が上がるだろう。つまり、子音や接続詞・前置詞などがメロディーラインに巧みに配置され、さらには歌手の癖なども相まって、ブラジルの歌は独特のリズムを生み出しているのではないだろうか。
例えば、このTravessiaに関していえば、「falar, parar, terminar, mater, viver, sofrer」といった脚韻がメロディーラインと呼応して楽曲全体に心地よいシンコペーション感を与え、サビの部分に挟まる「estradas」や「pedras」「brisa」といった強い音を持つ言葉が曲の盛り上がりと高揚感を生み出している。そこにミルトンの歌唱が、ときにタメをきかせながら、ときに食い気味に、独特のタイム感をもって天に昇るようなボーカルラインを描き出していく。なにせワタクシ、ポルトガル語はこれから勉強するのでエラそうなことは言えないが、あの曲のグルーヴ感というか流れにたゆたうような浮遊感・高揚感というのはこうした緻密な歌詞と歌唱のコンビネーションに大きな理由があるように思うのですね。
そういう視点からこのmoon riders版の日本語詞を眺めると、リズム要素としての音節の絶対量が足りないのではないかと思ってしまう。(一見)牧歌的な曲の世界観を受けて日本語に意訳し、あえて素朴な譜割りを当てはめたのだと想像するのだが、それでかえってベタな印象が増幅しているのではないか、というのが私の感想。だからmoon riders版を版木としたカバー曲には、同様の物足りなさを感じてしまうのかな。もっとも、訳詞といっても意訳だし、日本語詞の譜割りに合わせてメロディーラインすら変えてしまっている箇所もあるし、このカバーは原曲とはまったく別の曲と考えた方がいいのかもしれない。しかし、このいち早く日本語詞にして歌うというmoon ridersの挑戦があったおかげで「トラベシア」がこの国の人々にも広く伝わったわけで、その意味では偉大なカバーですよ。それには異存はありません。かもめ児童合唱団バージョンのカワイさは尋常ではないしね(笑)。
罪なヤツよのう、Travessia…
日本語カバーの後に、ビョークによる“Travessia”カバーも聴かせてもらった。こちらは実に素晴らしい出来。ポルトガル語で歌っているのだが、彼女(アイスランド人)の母国語でなくても、聴く側にも歌詞がすべてわからなくても、ミルトンの歌唱と同様に「何か」熱いものがビシビシ伝わってくる。ビョークはやはりクラスが違う、楽曲理解の高さと歌唱のレベルの高さにおいて。この曲の歌世界に共感し、この歌詞を歌いたいという熱い気持ちが目の前のスピーカーからあふれ出している。これがカバー、これがトリビュート、これが歌手の心意気。私は思わず落涙しないように目を閉じたほどであった(笑)。いや、凄いよ、ビョーク姐さん。これを聴けただけでも参加した甲斐があったというもの。
というわけで、長々とお話ししてしまいましたが、ポルトガル語の歌詞のリズムやカバー論まで私の思考が飛躍するほどに、今回のイベントは刺激的でしたよ。今回は(マテリアルとしてのサンプリングも含めて)「音」を軸にミルトンの音楽的影響の広さを探る内容でしたが、カバーを聴けば聴くほどミルトンやブラジル音楽を語るうえで歌詞と韻律の問題は避けて通れないということにも気づかされ、何か自分の中に新たな探究テーマが見つかったような、そんな記念すべき土曜日の国立の夜でございました。
YouTubeで参考資料
ミルトン・ナシメントのTravessia
moon riders版(これはこれでいいよね)
Bjorkのカバーバージョン(少し重めですが最高)