テキストって何だ? ロジックって何だ?

はあ〜、日曜だというのに自宅に仕事持ち帰り。でも、ようやく終わったので、最近読んだ本のことをちょっと。

小島信夫『残光』(新潮文庫
残光 (新潮文庫)

この作家の本を読んだことはなかったが、豊崎由美氏が「ゼロ年代の30冊」に選んでいたので手を出した。文庫本の裏表紙には「小説と、自らの家族の半生を巡り、自在に展開する文学者の強靱な思考を鮮やかに結晶化した遺作/最高傑作」と書かれている。認知症が進み施設に入った老妻との話もあるようだ。こうして、何となく、老境を迎えた作家の自己省察に満ちた美しいエッセイのような小説だろうと予想して読み始めた。
……しかし、である。すぐに私は気づいた。この作品の厄介さに。なかなか噛みきれない肉料理のような(あるいはグミのような)妙に難解な文体にだ。「ひょっとして、とんでもないものに手を出してしまったのではないか、オレ?」
どこが難解かって、まず、主語はだれ? と探してしまうこと。台詞の発語主体が誰なのか、わからなくなる。とつぜん人称が切りかわるし、ここで書かれている「私」はだれなのか、読んでいて全然わからなくなる。それはまるで、まっすぐ進んでいたと思っていた道に霧がかかって気づくと毎度全然ちがう道に出ていくような感じなのだ。そして、この作品では、話の中に作者の昔の作品の話が出てくるのだが、今ここで書かれている「私」とは、いったい過去の作品の「私」なのか、現在の話者である「私」なのか、はたまた他の人の言う「私」なのか? これまた、1ページ読み進むたびに五里霧中状態。オレって、こんなに本読むの遅かったっけ?―オレ、頭悪いのかな、やっぱり、と自分を責めはじめる始末。わからない→イライラする。しかし、妙に感覚的に伝わってくるものを感じる。それは非常に複合的な色彩のイメージだ。それは作者の心象がそのまま表に出たものなのか、それとも読む側の心象がつくるものなのか? ここではじめて「読む」ということが、じつはとてつもなくやっかいな行為だということに気づかされる。そして、この主語をさがす行為が、だんだん意味のないもののように思い始めてくる。
そこで、途中で私は腹をきめた。もうどうせわからないなら、ロジックを捨てて、地の文と会話文をこのまま猜疑心なく読み進めてみることにしたのだ。
するとですね、ふしぎなことに非常に粘度の高い何ものかに(スライムとかゼリーとかそういう類のものに)身体を包まれ、そいつに自由を束縛されながらも、滑っていくような、なにか心地よい感覚を得られるようになったのである……それは、91歳の老作家の頭の中を探訪しているかのような、あるいは作家の頭脳と交信し、精神活動、心の揺れと共振しているかのようなシンクロ感。そんな感じがしてきたのだ。そして、私の頭にはまた新たな「?」がぽこぽこと浮かんでくる……文学って何? ロジックって何? 伝えるって何?

ボクたちは、浮き世のビジネスの世界では、ロジックのなかで仕事をしている。例えば、私は制作者の端くれなのだが、いくらいい表現案を生み出しても、その良さ・意義を言葉で説明できないと、客はなかなかカネを払ってくれない。だから、日頃から「イイね!」と思ったら、そのどこがどのように良いのかを言語化(ロジック化)する癖をつけないとね、なんて、同僚の後輩たちに話したりもするのだが(まあ、無理やりロジックをこじつける仕事もあるけど…笑)、そんなことを繰り返していると、ただの屁理屈人間化していく傾向に陥る。キャー怖い! まさにロジックのアリ地獄。でもね、そんなアタシでも思うのです、ロジックで人の気持ちなんてほんとに説明できるのかな? って。
もひとつ言うと、今の世の中、不況のせいかもしれないけど「わかりやすい」ものだらけ。わかりやすい歌詞、わかりやすいファッション、わかりやすい小説、わかりやすい映画……。誰にでもすぐに意味が伝わるスピードが何よりも優先される、それが今の「常識」のようだ。しかし、わかりやすい方が絶対に正しいのかな? そもそも人間の感性って、そんなに簡単に割り切れるものなの? 人間の精神って、もっと複雑なもんじゃないの? あるいは文学や美術って、そんな程度の単純なもの?
遺作として小島信夫氏が投げかけているのはそんな問いなのかもしれない。この「わかりやすさ」とは対極に位置する本を最後までどうにかこうにか読み終えてボクはそう思ったのであった(他の作品を読んでいないので、いい加減なことは言えないけども)。文学、おそるべし。


この『残光』にも登場する作家、保坂和志氏の『カンバセイション・ピース』(新潮文庫)も読んだ。こちらの小説はうって変わって読みやすいが、その人当たりのよい外面とは裏腹に、既存の現代小説とは全然ちがうところを見ているクールな眼差しのようなものを感じた。一軒の古い住宅が舞台なのだが、その家以外のシーンは、横浜スタジアムと、いくつかの場所のみ。ほとんどが、家のなかの会話で構成されているのだ。夏目漱石の時代でも、もっとあちこち動いているぞ(笑)。これも、一筋縄ではいかない本だ。文学、おそるべし。
カンバセイション・ピース (新潮文庫)